民衆的工芸品の特性


 民芸品という言葉は「民衆的工芸品」の略称であって、昭和の初めに

柳宗悦師によって称え初められたものである。一般の民衆の間で作られ、

民衆の間で使われる健康で簡素な美を備えた工芸品を指す名称であるが、

この名称の前には、このような民衆の雑器を下手物(げてもの)と呼び

ならわしていた。無名の工人が作り、数が多く、値段も安く、普段づか

いのものであるから、有名な人が作り、貴族や金持ちのための稀少高価

な、上手物(じょうてもの)に対して、軽蔑して呼んだのである。

 下手物は、日常生活に直結する下々の働きもののことだから、工芸本

来の正しい姿を備えた、工芸の正系であるが、下手物という言葉の語感

が強く、歪んだ誤解もつきまとっているので、柳宗悦師がこれに代えて

民衆的工芸品と呼びはじめたのである。

 民間の生活用具だから、一般の「民具」の中に含まれるものであるけ

れども、民芸品は諸々の民具の中から、特に生活に直結する美しさを要

件として選ばれるものである。民具一切を観察の対象とする民俗学は、

民衆生活の経験した全体を帰納して成立する経験論であるが、民芸美論

は、生活的美しさという価値を追求する価値論に立っているから、選ば

れた品々には健康、簡素の美が備わり、民衆の日常生活に直結して工芸

本来の用を全うする姿を示すのである。

 そして、それらの民芸品が、日常の生活の中で示す性質は、

 実用性・民衆性・多数性・安価性・無名性・協力性・自然性

などであるけれども、このような性質は、上手物の美術工芸品がもつ

 観賞性・自由性・稀少性・高価性・在銘性・個人性

を崇める人々から、下手物として嘲笑され、冷遇された。そして、その

下手の物の審美性や道徳性、社会性、経済性を高く認めて起された、柳

師の「民芸運動」に対してもはなはだ冷淡であった。しかし永く人道主

義に訓練された西欧の人々の間に早く反応が起り、民芸美の精神への共

鳴は世界的に拡まるようになった。そして今日では世界中、民芸の「用

即美」論をおろそかにして工芸を論ずることは、大きな失格とされるよ

うになったのである。

 しかし一方には、民芸品を単なる民間品という誤解や、趣味品という

曲解が起って、民芸のよき性質から離れた民芸趣味や民芸調、民芸もど

きの物が世に横行し、皮相な言葉だけの民芸ブームが盛んとなったので

ある。誤った茶道の流行が茶の本道にとって迷惑なように、誤った民芸

ブームも、民芸の本道にとって甚だ邪魔物である。だから明らかに民芸

品の本性が知られ、見られねばならない。

 その特性として次の六つを考察しよう。


  実用性

 民芸品は一般生活の実際の用に役立つことを使命としている。作られ

る目当ては働きに就くことである。これは工芸本来の趣旨であり、民芸

品はその正系にある。役に立つために健康な体となり、簡素な姿を整え、

奉仕の志を備えている。即ちその容姿は用に即した美を示していて、観

賞や趣味に沈んでいる物ではない。

 実用の品は三つの条件を整えねばならない。材料と構造と機能である。

材料は吟味される。偽りの材料は製品をみにくくするからである。構造

は忠実でなければならない。正確な技術が工作を確実にし、品物を働き

に堪えさせるのである。材料と構造とが整えられると、物はおのずから

生活の中で機能を果し、それによって一層用の美しさを表して来る。

趣味品や美術工芸品が生活に結ばないのは、初めから働く意志がなく、

気分を主にして材料や構造を軽んじているからである。

 実用性は民芸品の美の要素である。


  民衆性

 民芸品は作る者も使う者も一般の民衆である。即ち特定の優秀な個人

の作でなく、特別な階級の特殊な用に供せられるものではない。

 このような民衆性は民芸品の主要な資格であるが、このために永く下

手物として軽視をうけた。美しい良い物が民衆の間には在りえないとい

う謬見が支配的であった。ことに近代の個人主義の尊重によって、知識

と地位と誇りをもつ個人作家の観賞品が崇められ、民衆の日用品はさげ

すまれた。民衆工人は元より地位も低く、誇りも有たない。しかし、す

べての条件は乏しく弱くとも、彼らの作る物をぢかに見る時、無私な美

しさと頼むに足る力を備えているのを否むことは出来ない。自然の意志

は自己をたてない途によく示されるのである。

 民衆性は天の恵を受ける条件であり、大道である。


  協力性

  民芸品は個人の孤独な業ではない。祖先と仲間との協力の仕事である。

祖先は伝統をのこして子孫に協力している。それを受け継ぐことは祖先

との協力である。伝統は祖先が経験によって得た知恵の集積であるから、

工人はこれを受けて、材料の吟味、構造の技術、機能の要点を無駄なく

心得るのである。伝統を否定し祖先の協力を拒む者は相当の罰を受けね

ばならぬ。伝統はたての協力である。

 祖先との協力を喜ぶ民衆工人は、仲間との協力をも励む。技術も労働

も個人の専有ではない。知識に閉鎖的な秘伝はなく公の所有である。仕

事は排他的な個人の一貫作業を採らない。たとえば一枚の衣服は糸を紡

ぐ者、染める者、織る者、仕立てる者の協力である。そこには我を張る

狭さがない。個を越えた安定がある。仲間との結びは横の協力である。

 協力は経糸緯糸の美しく強い組織であり、民衆の賢さである。


  無名性

 協力の仕事は当然、無名のものとなる。経と緯との協力であれば、個

人の名を出し、それを云い張る筋合はない。しかも、工人たちは社会的

地位も低いので、自分の名を立てようとする意識を有たない。それに、

天与の貴い自然材の性質に従って手を貸す仕事だから、仕事は自然の恵

みへの賛美であって、自分の誉れではないと知っているからである。

 無名性は、自己主張の罪から離れている。


    多数性

 無数の民衆の日々の用を果すためには、多数の品物が必要である。民

芸品はこれに応ずる社会的使命をもち、多数性は欠くことのできない要

件である。

 小さな家庭でも五人前や半ダースの器を有ち、大衆の集まる寺院や食

堂なら、五十人前百人前の数物が必要である。このような数物を作るた

めに民芸品はそしりを受けた。稀少価値を崇める人々は、稀少な美術品

を尊び、値段の高さが美の高さと謬り見たのである。よしそれが美しか

ろうとも、少なければ世に弘く行き渡ることはできず、社会性は極めて

乏しい。しかし、民芸品は多数によって、普く民衆の生活に健康な美を

浸透させることが可能なのである。そして多く作られることによって、

迷いのない確実なものとなる。それは仕事を繰り返す練達の賜である。

多数の繰り返しを恥じない者には、労働の美しい果が与えられる。

 多数性は確実な美の普及である。


   安価性

 民衆の日常に結ぶ用品は、民衆の経済と深い関係をもっている。高価

は家庭の迎えるところではない。日用品は安価を旨とし、弘く民衆に喜

ばれねばならない。しかし、安価の品は粗製濫造であってはならない。

安くても耐久しなければ、安かろう悪かろうの浪費を招くからである。

 真の安価は、製作人の体と心に深くかかわっている。即ち、怠惰のな

い繰り返しの労働と、奢らぬ生活によってもたらされる。稀少価値によ

って生活しようとする個人作家の作品は高価となり、民衆の日常生活か

ら遠ざかる運命をもっているが、安価な民芸品はかかる不運から、遠く

離れている。

 民芸品は多数製作によって安く仕上がる利点を有っている。そして安

いため多数の需要がある。それに応ずるのが民衆工人の生業である。多

数の反覆は品を確実にし美しさを冴えさせる。

 安価と多数はよき循環であり、美の摂理である。


  自然性

 民芸品は天の然らしむる物と心に立っている。材料は自然の物である。

無数の人造資材があるが、自然材には勝てない。木綿にまさるよい肌触

りの物はなく、砂糖にまさる甘味はない。どの新建材も山の木材に優る

ことはできない。民芸品は生命ある自然の材料に厚く信頼し、その性質

に順応して作られるから、自然はここにもっともよく活用されるのであ

る。だから、材料のあるところに仕事が起っていて、民芸品は世界中到

るところで、その地方性と国民性とを示すものとなっている。

 工人の心も又自然である。時間と機械の制約による不自然な労働はな

く、伝統の知恵と責任と喜びの中に、与えられた材料で無事な日用品を

作るのである。作意の邪魔はなく無理な品、異常な物を求めることはな

い。自然の意志が工人の心である。

 自然性は民芸品の始終を貫く支えなのだ。


 以上の特性を要約すると、民芸品はその製作にも使用にも厚く自然に

即し、民衆の能力と生活に基礎をもち、合理性と道徳性と審美性をもっ

て具体的に民衆に直結し一般の生活文化を高める重要な存在である。こ

の精神に立って、社会全体の美しい生活に対する責任を負い、製作や普

及や教育に当たっているのが民芸運動であり、民芸館である。


                (打ち込み人 K.TANT)

【所載:倉敷民芸館刊行冊子 昭和61年5月】

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